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2019年11月 6日 (水)

戦争と女性

ゆうまつどフェスタ 講演会
戦争と女性 11月3日(日) 講師:中原道子さん メモ


韓国では歴史を伝えようとしている
民主人権記念館
植民地歴史博物館(日本人の案内もある)



学生が聞く「植民地とは何ですか?」と。それくらい歴史を教えていない証拠。


近代日本は実に良く戦争をした。
今日まで戦争が無かったことは本当にありがたい。
1931 満州事変
1933 国際連盟脱退
1937 日中戦争始まる

侵略とはシンプル、相手国の許可無く国境線を越えたら、それは侵略である。
日本は国際連盟から非難を浴び、むくれて脱退した。

戦争は軍部が始めるのではない。
国家が戦線布告しなければ始まらない。
天皇が許可したので、当然戦争責任はある。
しかし流石に東京大空襲や原爆投下があり、謝って戦争をやめようとしたが、内閣総理大臣(吉田)から止められる(ヒロヒトの日記より)。


東京裁判でさえ、天皇は裁かれなかった。
マッカーサーは天皇を活かし(利用し)日本を統治しようとした。
ヒロヒトは、謝らず裁かれず亡くなった。

そこで女性の話だが、戦争は男が起こす、男が考える。

戦争につきものは強姦。

戦争は他国に侵略して人を殺すという、とてもおかしな行為。

民間が経営していた慰安所、やがて日本海軍、日本陸軍が買い取った。
公文書燃やして証拠隠滅を図ったが、それでも証拠は残った。1931年

日本は積極的に慰安所を開設している。なぜか、強姦が多かったから。

麻生徹男、産婦人科の医師が徴兵された。朝鮮に着くと100名の女性の身体検査を命令された。日記には「朝鮮の慰安士は純粋無垢なもの、北九州からの慰安士はその道の商売女と見える」とある。日本で未婚の無垢な女性を連れて行けば大問題になるが、侵略先では何をしても許される。処女、未婚、女性であれば誘拐して慰安所に、強姦、略奪…

日本の軍部は、酒と女を与えることしか考えなかった。

アメリカは実は日本の軍部を調査している。「図書館はあるか。音楽を聴けるか。」なども調査項目に入っている。

アメリカでも現地の兵隊に慰安袋を送っているが、その中には本をたくさん入れたそうだ。
兵隊文庫なるものまで作られ、戦後本が大好きになったというアメリカ兵が多かったという。大学に進んだものも多かった。

日本は負けたから仕方がなかったかもしれないか、日本社会の貧しさを象徴しているエピソードではなかったかと思う。

千田夏光著「従軍慰安婦」、おそらく日本で出版された最初の衝撃本ではないか。
「女性の人権 アジア法廷」

朝日新聞記者だった、松井やよりさん。
編集部に入社したら社員通用口の警備員から「ここから先は編集部。女はダメだよ」と言われる。そういう時代。男性社会ゆえ、苦労が多かった。


73,000人の兵士がシベリアに出兵した。
出兵統計を見ると、非常に性病が多い。
慰安所の慰安婦は検査と治療されているので、慰安所だけを利用していれば性病にはなりにくかったはず。
娯楽は酒と女を抱くことしかない。新聞・雑誌は軍部は見せない方針だったので、日本の情報は兵士に入らなかった。

書籍:「戦時・性暴力をどう裁くか」
フィリピンペナン島のホテルが慰安所になっていた。
慰安婦だった唯一の女性がいる。九段会館で行われた"アジア女性法廷"、マレーシアのタブロイド版の新聞を読んだフィリピン女性が名乗り出た。
自分も伝えなければ、と立ち上がる。が、「性奴隷」として記者に追いかけ回され、以来人前には出なくなってしまった。

私のゴッドマザーになってほしいと頼むと彼女は喜んでくれた。

それから付き合いが始まった。

女性法廷の時には、慰安婦とされた女性たちを呼び、5大陸から著名な判事を集めた。著名な判事を1週間留めるのは大変なこと。
多分1億円はかかっただろう。各国が1,000万円出してくれたり、大口のカンパも。なんとか4日間無事に過ぎた。

国連に法廷の報告書を提出した。こんなことはかつてなかっただろう。
国際会議に出席するのは全て男性の時代。

「戦時・性暴力をどう裁くか」は、女性問題を位置づける重要な本だった。


日本の法律でも「未成年を連れ出してはいけない」とあるから、それでも十分裁ける。
国際法でももちろん禁止。しかし裁かれない。
何故か?法廷に携わるのは全て男性だからである。

私たち女性は見過ごしてはいけない。
声を出すことにより救われる人々がたくさんいる。例えば、外国人労働者の女性が置かれている状況を黙っていてはいけない。

吉見義明著「売春する帝国」岩波書店 2019
売買春させられた日本人の、おびただしい数。

戦地では必ず「陣中日誌」が書かれていて、必ずと言っていいほど従軍慰安所のことが書かれている。
健康診断、治療、入院、…慰安婦の人数も368名など細かく書かれており、多くの慰安婦がいたことがうかがえる。

慰安所規定、
支那人 一円、朝鮮人 一円五十銭、日本人 二円
明らかな価格の差。
女性の人権無視、モノ扱い。

日本帝国の性売買組織を作ることにより、維持、継続しようという強い意志が見受けられる。

戦争に負けた時、アメリカ兵向けの慰安所を作り始めた。それを戦地の牧師がアメリカ本土に報告するやいなや、兵士の妻たちが抗議の声をあげた。


書籍:戦場の宮古島と「慰安所」
戦時中、宮古島には17ヶ所の慰安所があった。
当時少年だった男性が、美しい憧れの女性たちが実は慰安婦だったことを知り、碑を建立することに。
碑には説明が12ヶ国語で刻んである。


質疑応答タイム
1、終戦当時4年生頃。パンパンガールがチョコレートやガムを配ってくれた。あれは従軍慰安婦だったのか。
→従軍慰安婦は軍が厳しく管理していた。パンパンガールは独立して働いていたと思われる。

2、パンパンガールも売春防止法が無くなるまで続いたはず。女性たちは分断されてきた。今なお、近親相姦さえ無罪判決が出ている。女性の人権の低さがずっと続いている。カニタ婦人の村、今でも50人くらい住んでいる。性暴力の被害者も含む。

3、慰安婦の碑の最初は?→カニタ婦人の村。昭和天皇はこの事実を知っていたか?→陸空海軍、内閣の情報は全て集まっていたはず。判断や決定もしていた。なので有罪である、と判断された。逆に言えば、戦前の日本で、天皇以外に戦争責任を取れる人はいない。
早稲田大学横のWAM(ワム)に行くと展示がある。

 

<感想>
参加者は見渡したところ、私と同年代は見当たらない 。
こういう話題を聴きに来るのは若い世代はいないのか、
それとも宣伝の仕方が悪いのか…残念でした。

戦時下におけるアメリカと日本の、生活の捉え方の豊かさが大きく異なり、とても驚かされました。
豊かに生きるってことの意味を、日本はずーっと分からないまま、現代に至ってはいないだろうか…

京さんが亡くなって1年…

昨日11月5日は、先輩議員だった中田京さんが亡くなった命日でした。

とても個性が強くて(アクが強い、と言った方が良いかも??)、好かれ

るか嫌われるか極端な女性でしたが、私は大好きでしたし、とても良くし

てもらいました。

生前に”樹木葬”について一般質問していたから、と、京さんお兄さん

松戸市内で樹木葬をしてくれる墓地を探したんですって。

 

京さんは、何時ごろ旅だったんだろう…

そう思うのと同時に、なんてカッコ良すぎる去り方なんだろう!?

だって、現役の議員で、誰にも看取られず、あっさりと…

葬儀には、市長以下3役くらいしか参列せず、ほとんどの人が最期のお

別れをしていないんです。

もちろん私もですけど。

まあ…取り残されたような周囲の京さんファンは、みんな

「そりゃないよ!京さん」

て、思いましたけどね…

 

あまりにも突然だったから、市役所内では「自殺したらしい」なんてウ

サもあったんですって。

うーん、それは正直京さんに失礼だよな〜って思ってしまったけど。

 

私が初めて議員になった時、京さんと私しか無所属の女性議員がいなく

「良かったら一緒に報告会しませんか?」と京さんから誘ってくれた

のです。長年議員を経験してきたベテランと私みたいなシロウトが一緒

に、なんて話にならないんじゃない??と思いながらも、断る理由もな

く、お受することにしました。

第一回目、どうして議員になったか、何をしたいか、など基本的なことを

話しました。やっぱり緊張していたかな〜…でも、参加してくれた人から

は「ボケとツッコミ、漫才みたい」と言ってもらって、楽しんでくれ

たいでした。

で、選挙前の6月議会まで全部で12回、議会漫才??やりました笑

  
毎回とっても楽しかったですよ(京さんが8〜9割話してたかもしれない

けど!)。

 

あっという間に1年が過ぎたけど、お墓の前ではやっぱり寂しくて泣いて

しまった。たったの4年しか一緒に過ごさなかったのに、京さんがこんな

に私にとって大きな存在になっていたことに亡くなるまで気付かなかった

です。そういう意味でも不思議な女性だったかもな…

 

私が去年、京さんの訃報を知ったのは、京さんが亡くなった翌々日の

11月7日。

夜、メールをチェックしたら、議会事務局からのメールを見つけて、飛び

上がるほど驚き、泣き崩れのです。その晩は泣き明かし、翌日の活動

全くできませんでした。さらにその4日後からは、にとって2回目の

選挙が始まったのですが、一ヵ月前の右手の指三本の骨折と、さん

急逝のショックが重なり、心身ともにボロボロ、散々な選挙になり

ました。

 

何しろ声が出ない。お腹に全然力が入らないんです。油断すると涙が出

ので堪え続けていましたし。

そして集中力が全く無い。近くでスタッフの人が話す声で頭が混乱して

何を話しているのか分からなくなってしまう。

 

こんなことで私は議会に戻れるのだろうか…

内心、とても不安でした。議員活動は相当がんばってきたつもりでした

選挙は議員活動と必ずしもイコールにならないものなので…

それに、私は全く覚えていないのですが、私、だいぶピリピリしていた

うです。多分、私は滅多に怒らない性格だと思っていますが(議員と

してはダメかもしれないんですけど汗)、もしかしたら…

いいえ、やはり自分では全く思い出せません。

 

結果は…幸いにも何とか当選させていただきましたが、理由はともかく

私を通して社会を変えようと、4年間ポスティング等を通じて支援して

いただいた皆さんの期待に応えるほどの結果を出せず、本当に申し

い気持ちでした。そして、こんなにボロボロの選挙でしたが、私の

1期目の活動を支持してくださった有権者の方々には感謝の気持ちで

いっぱいでした。

 

選挙が終わったら飲もうね、と、京さんと約束していたけど、それは

わなかったね。ホントに残念だったな…

あ〜、京さんと飲むの、楽しかったんだけどなぁ。

まだまだ教えて欲しいことが山のようにあったのに。

 

今でも、京さんだったら、どんな判断するだろうな、とたびたび思う。

でも、もういない…

 

この先も自分が信じるように活動するね。

京さんにとってはすごく不安だろうけど(!)

見守っていてね、京さん。

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